openness −FEEL−


[2007年] [2008年]



◆2008.11.11 怒り

耳に心地よくない言葉は耳にするだけでつらいね。
つらいから聞きたくないけど、
鳴っている音(おん)は聞こえてしまうし、聞こえてしまったら心が痛い。
むやみやたらに傷ついていたら参ってしまうから
傷つかないよう抑し出そうと思っても、耳に届いた時点でとうに傷を受けている。

毎日毎日そんな事の中で、
「こんなものになんて絶対負けない」と思う。

会社勤めを始めて心の病を患った、
そんな子が私の周りだけでも何人か、いる。
私の大切な人たちにそんな思いをさせたものになど屈しない。
許さない。

傷を受けながらも、
世界は美しい。愛は尊い。愛こそ豊かさだ。
そう言い続ける。
己の中にたくわえられたあまたの愛で、
片っ端から傷を治していく。




●2008.10.2 「わからない」芸術…

「ピカソってよくわからない」
そんな言葉をよく耳にします。
私の周りにも、そう言う人はたくさんいます。
私自身、よく分からないでいました。
「なんでこんな風に描くの?普通に描けばいいのに…」

何が評価されているのか。何がすごいのか。
ピカソに限らずいろんな芸術品について、ずっと、自分の中に問い続けていました。
何かある。私のまだ知らない、何か扉がある。

高校に入って、絵をちゃんと描くようになって、
「うまい,へた」以外に、「感じる,感じれない」という、別の見方を知りました。
目に見えるもの以外に、感受性で感じ取れるものがある。

芸大に入って、とにかくあちこちの展覧会を観てまわり、
基礎がある絵と無い絵、崩して描いているにしてもデッサン力の有無が歴然と分かる ということに気づきました。
だんだん、ピカソの良さに気付き初め、でも、確かにピカソのデッサン力は並々なら ぬものがあるけども、なぜ普通に描かない?
まだ、分からずにいました。
色々な絵を観ていくうち、私も具体的な物質を描くだけじゃなく、落書き(無意識に描 き出すもの)を、描いてみるようになります。
絵を描くことの原点に還るつもりで。

そのうち、ある授業に出会います。
「ピカソってよくわからない」
冒頭に挙げたその言葉について、「わからない」というのは、「何が描いてあるのか わからない」という意味だ、という話がありました。
「何が描いてあるかわからない」つまり、「何か(自分たちが目に見ているような“物 質”が)描いてある」のが絵だと思うから、わからない。
物質を見出そうとしなければわかる。
抽象画は物質は描いていなくても、例えば感情とか、空気感とかを“具体的に”描いて いる。
そういう意味では、具象画の方が物質を通して“抽象的に”それらを描いている、とも 言える。
(具象画と抽象画という観念自体が、本来ヨーロッパでは存在せず、日本独自のものら しいです)

この授業によって、私の扉がひとつ、開きました。

面白くなって、それからいわゆる抽象画を描くようになります。
目に見えない感覚を、具体的に描き現していく。
まったく答案のない世界で、自分の中の描き出したいと思う感覚を、ひたすら忠実に、 心で見て、描く。
自分の感性に意識を集中させて描く作業です。
これを続けていったある時、とある立体作品が並ぶ展覧会場で、その作品に重なって、 光の固まりを見ていました。
物質が物質として見えてこない。
作品に込められていったエネルギーを見ていたのだと思います。
その日は、街を歩いていても、行き交う人に重ねて、光の固まりを見ていました。

ぼちぼち描いたり描かなかったりして、社会人1年目、芸術の世界に飢えていた時。
ピカソ展があるというので、山口県まで観に行きました。
観ていて、ムチャクチャ悔しくなった。
「私、今からこの境地までなんて、とても行けないじゃん!」
「…なんで?(私も行きたい。)」そう問うた時、絵に、ピカソ本人を感じました。
ようやくピカソに会えました。

技術的なものを見るときは、カタチを追います。
筆の運び、面積や構成、配色。
しかし画家と対話したいときは、作品の前に立って、見つめながら感性を開く。
ピカソは絵にしっかりと生きている。その命を強烈に感じます。だから好きです。



●2008.7.23 友だちからの言葉

「大切なのは、持つ想いを表すこと。情報を伝えること。
それにより信頼が生まれ、人は集う。
技術や知識は、行っていればついてくる。」

夢を叶えるコツです。



●2008.7.20 “普通”

“普通の人”に惹かれる。
私がどうやったって得られない貴重なものをみて生きていると思う。
ゆるぎない生活の中で生きている。
確かさの中にいる。
安定した土台に立っている。
(事実安定かどうかは別問題として、ひとつの安定の上にある。)
『知と愛』(へルマン・ヘッセ:著)に共通する。
宗教は信じない、神はいない、確かなものなどない。
しかしながら、ナルチスにあこがれ、ナルチスに安静を得、
祈りに安静を得る。
心の安らぐ場所を、今は芸術にではなく“普通”に感じている。
私も振れ幅が大きい。



◆2008.6.6 できること?

“商業デザイン”
つまり経済のためのデザイン。
“デザイン”
生きるためのデザイン。

経済は人を幸せにしたか?
デザインは人を幸せにできるか。
文化は人を豊かにするか。
芸術は人を生きさせるか。

私がしてきたことは何か。
今の私はどこに立っているか。
そして私はどこへ行きたいか!

何をしたいと思ったか?


一緒に絵を描きたいと思いました。


でものびのび絵が描けても生きていく術にはならない。
私は私が最も望んでいることを、食うために否定する。
だってお金かせげないじゃない。
経済社会にウンザリした私がそれを思う根本にある矛盾。

お金は必要。いや、食べるもの、着るもの、住むところ、
あと教育にもかかる(学費が。)旅するにもかかる。
原理主義でいえばなんとかなることでも、
やっぱり全て自分でやったり交換するだけじゃなく、
お金ためて買う喜びってある。
お金→対価=評価、“評価してほしい、私のしたことを”
今どこの国にもほぼある。“正当な対価で評価してほしい、私のしたことを”
一人前の大人になるということは、
評価される行いをするということ。
じゃあ何をして評価されたいのか。

高校生のとき、ある先生に出会えて、絵を描く喜びを知った。
表現する喜びとか、そういうんじゃなく、ただ描く行為だけで楽しかった。
自由な場所を手に入れたと思えた。豊かさを知った。

グラフィックデザイナーになりたいとか、画家になりたいとか、
それはまた別のことで。そんなんわりと関係なくて、
ただつくったり考えたり描いたりしてるのがずっと続いたら幸せだって思って、
ずっとそうしていられる事を望んでいた。

生きて、ただひとつのことでも成せたらそれはすばらしい事だ。
欲張ってはいけない。ひとつだけ…

描く喜びを伝えたい。芸術の喜びを。
表現することは希望をもつことだ。
希望なしに何も表現は生まれない。
話すこと、動くこと、歌うこと、描くこと、
希望をもって行うことだ。

生きる喜び、希望を伝えたい。
希望をもたせたい。

それならば、先生もいい、作家もいい。
福田繁雄さんの作品は希望をみせてくれる。
氏は教育の現場にはいなかったけど、生きた作品をみせてくれる。

希望あること。

私は人に希望をみせて生きる。
私の生き方は、希望を体現すること。



■2008.4.18 希望

何も希望がもてない。
誰にも何も期待できないし、信用しきれない。
音楽って世に希望があって生まれるものなんだなって思ってたけど、
私今絵描けない。絵も実は希望をもってるから生まれるものなんだって気付いた。
希望と…世界を好きだから描けるものだったんだな。
希望を失ってる今の私には、何も描けない、描きたいものがない。
“信号(シグナル)”って、心が通じ合うって、そんなのウソだね。
私が泣きつづけてても、遠い地でまた友達がしんどい思いしていても、
気付けたためしなんて、ないよ。
でも私、希望の捨て方が分からない。
どうやって捨てればいいのか知らない。
こんな思いして、利点といったら…
社会人になってしんどい思いをたくさんしてきた友達の思いを
まだ浅いながらも少しは知れることかな。
しんどい、しんどいけど、
彼女たちの心少しでも知れるなら、
しんどくてもいい。
って、1時間ちょっと泣き続けた末にみた希望。



●2008.4.11 欲

不思議なもので…
故郷から離れて、故郷をよく見つめていると、
あるわあるわ、いろいろ。好きなもの。
せっかく東京にいるというのに、
私は渋谷にも青山にもたいして遊びに行かない。
少しくらい浮き足立ってくれたっていいのに、
さっぱり。
行ったら行ったで1日中歩きまわってるくらい楽しいんだけど…。
岐阜の故郷にいた時から、さっぱり物欲がわかなくて、
東京来たところでそれは全く変わらないなぁと実感中。

仕事が「デザイン」で、商業デザインをやっているため、
人間の欲についてよく考えている。
それは売るための分析ではなく、ホントはみんな、何がほしいんだろ?と思ってのこと。
最近買った本にこんな言葉が出ている。

“愛する人と会うのはやめなさい
 愛さない人とも会うのはよしなさい
 愛する人と会わないのは苦しい
 愛さない人に会うのもまた苦しい”(法句経より)

その後につづく説明を読んでいくと、
つまり「見るから欲が出るんだ。見なければいい」ということ。
私が流行の街で歩いているとウキウキしてくるのに
帰ってくると別にまた行こうと思えないのはそういうこと。
つまり行かなきゃ行かないで別に大したことじゃない。
広告があるから「アレ欲しい!買おう!」ってなるんだろうな。
広告がなきゃあ物欲なんておさえる必要さえない。
全ての広告が悪いというんではないけども。

私は東京の古ぼけたマンションの一室で質素でおいしい夕食を食べている。
ドアを開けて外に出ればそこは少しはなじんだけど見知らぬ土地だ。
月は私が生まれてから変わらずずっと今もある。
立派な木も、すっくと立っている。故郷の木はもっと雑然としている。
(東京の木の方が立派に見える…よく手入れがされている)
部屋にはパソコン、本、絵を描く道具。
たべもの、着るもの、あと宝物の人からもらった諸々。
それで私は何がほしい?
美しく広がる景色と、気心の知れた人間たち。
私の血が何よりなじむ 私を生み育てた土地。
そこで私は普通に生きて、絵を描く。
東京で2年以上いて、私が得たものはそんなことなのかな。
もちろんそれだけではないけど、確かにそれは得た。
でも戻りたくない。それは岐阜にじゃなく、来た道をってこと。
今年もいて、3年たって戻って、
私は何を手に戻るの?
何も持たずに戻れないっていう気持ちが、迷わせる。
何持ってこう、何持ってこう…。
手みやげ。おみやげ。何か私の身になったもの。
なんにもないよ どうしよう?  それが私の今の焦り。
今年1年終わるまでに答えはみつかってるのかな…。
「やる」って言って出てきた、その事ちゃんとやらなきゃな。
ただアレを。

ひとつはできたね。というか、知れたね。
「私はゼロからやれるか。」
過去の“実績”、守られてきた周囲の人々のつながり。
依存してきた私。
いろんな人に出会って、人として少しはちゃんと成ってきたかな?という私。
ちゃんとただの1人で人とのつながりを得ていけるか?
今の、ただ今だけの作品を、認めてもらえるか?
人として1人、立てるか?
さみしさでぐちぐち、ぐちぐち友人や親に支えてもらいながらだけど、
私個人として、つながり広げていけたし、
作品も見てもらえたね。
確かな自信になったね。

あとはもう一歩いこうね。
広告の世界は華やいでいて楽しげ。いや、楽しいだろう。
ひっぱられる心はある。すごいある。
やってみたい。
でもずっとやる?…ずっとはやらない。
本当にやりたいのは?
地味な生き方。
生きているって、日々、確かに感じている生き方。
ハレでない。
毎日、今日も確かに生きたって、実感すること。
土をふんで、野菜を育てて食べて、自分でちゃんとやること。



●2008.3.28 ゼロからのつながり

いつのまにか新たに「つながり」を築けていたことに気付く。
馴染みのご飯屋さんが閉店になり、私は本当にさみしかった。
もう会えなくなることが。あそこでお茶を飲んでホッとひと息つくことができなくなることが。
その時偶然もう一方の馴染みの店の方がそのお店へやってみえて、
別れの日に、新しいつながりが生まれた。
自宅近くのラーメン屋さんでは最近アイスコーヒーをサービスして付けてくれる。
自然発生するつながり…

ヤな感じと思っていた人も、自責の念やいろいろ抱えてる。
だからヤな感じになったりもする。私とおんなじ。
誰もみんなおんなじ。おんなじ。

私、この世界を全力で愛したい。
どうすればいい?どうすればできる?
それには私が開いてなきゃいけない。
“胸がつまる”その場所は、
ノドと心臓と左肩の間。